2009年07月01日

社会主義市場経済

1992年以降、再び改革開放が推し進められ、経済成長は一気に加速した。しかし、都市と農村、沿海部と内陸部の地域格差は深刻化し、とりわけ農民の不満が高まった。社会主義市場経済体制のもとで、江沢民・朱鎔基政権は格差是正と一層の経済改革に取り組むことになる。格差是正のための西部大開発、国営企業改革に伴う失業者の増大、民工潮、三農問題といった新たな問題も発生した。このような問題を抱えながらも、いまや中国経済は「世界の工場」と呼ばれるまでに成長し、生産大国としてだけではなく、米欧日に次ぐ第4の市場としても期待されている。2001年には、悲願だったWTO加盟を果たす。
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2002年から、胡錦涛政権が発足。2020年のGDPを、2000年の4倍にし(年平均7.2%成長)、中進国となる戦略を打ち出し、さらに全面的な「小康社会」を建設することを新たに目標に掲げた。「小康」とは、いくらかゆとりがあることを指す中国語で、ここでは、衣食がなんとか間に合う状態から、さらに生活が向上し、衣食が足りた状態に達することを指す。沿岸部だけでなく、内陸部の経済水準を引き上げることが狙いである。

2003年には全国人民代表大会(全人代)で温家宝が首相に選出され、朱鎔基の経済改革を継承することとなった。2004年には、私有財産権保護を明記した憲法改定案が全人代で採択され、株式制度、企業統治制度など、国有企業の改革のための政策も打ち出されている。また、2007年の全人代では、私有財産の保護を明記した物権法、国内企業と外資企業の所得税率の格差を是正する企業所得税法が採択された[2][3]。 2008年の北京オリンピックや2010年の上海万博開催も決定し、改革開放政策はより一層進展するものと思われる。

更に胡錦涛政権は和諧社会という各階層間で調和の取れた社会の実現も目指している。


2009年06月13日

ある量の計算資源を使って解くことができるすべての

ある量の計算資源を使って解くことができるすべての計算問題の集合を複雑性クラスという。

複雑性クラス P は、チューリング機械で多項式時間で解ける決定問題の集合である。このクラスは、直感的に言えば最悪の場合でも効率的に解くことができる問題である[2]。

複雑性クラス NP は、非決定性チューリング機械で多項式時間で解ける決定問題の集合である。このクラスには効率的に解くことが望ましいとされる様々な問題が含まれている。例えば、充足可能性問題、ハミルトン閉路問題、頂点被覆問題などである。このクラスの全問題は、その解法を効率的に検証する方法があるという特徴を持つ[2]。

多くの複雑性クラスは、それを表現するのに必要となる数理論理学によって特徴付けられる。これは、記述計算量の概念と関係がある。
伝統芸能
闘牛
フライングディスク
アルバイト
バトントワリング
エネルギー
スキューバダイビング
百日咳
サッカー
離乳食
中国のお茶の歴史
人体と細胞
消化器系事典
ステキな星座
華麗な花嫁
夏に咲く花情報
癒しの国
日本のお茶
けの付く言葉
ワインカラー

各クラスに対し、そのクラスの完全問題を考えることがある。 クラスCの完全問題とはCに属する問題のうちで最も計算するのが難しい問題のことである。 具体的な定義は以下のようになる。

?困難 (?hard)
クラスCに対して、問題PがC困難であるとは、Cに属する任意の問題をPに帰着(多くの場合多項式時間帰着を考えるが、そうでない場合もある)できるということである。すなわちPはCに属するいかなる問題よりも、同等かそれ以上に難しいということである。但し、C完全と異なり、P自身はCに属するとは限らない。
?完全 (?complete)
クラスCに対して、問題PがC完全であるとは、PがCに属しかつC困難ということである。すなわちPはCに属する問題の中で、本質的に最も難しい問題であるということである。

2009年06月08日

瑜伽として日本にヨーガが伝わったのは

最初に瑜伽として日本にヨーガが伝わったのは、大同元年(806年)、唐より帰国した空海にまでさかのぼる。その後、真言宗や天台宗の「護摩」、「阿字観」等の密教行法として、現在に伝わっている。禅宗の座禅も、ヨーガ・スートラ第2章に記述されるディヤーナの音写である。

現在巷で流行している健康法としてのヨーガは昭和時代に伝播したが、伝統的ヨーガを導入した新興宗教団体オウム真理教による一連の事件の影響で、一時下火になった。

だが2004年頃から健康ヨーガは再びブームとなり、ダイエット方法の1つとしてテレビで紹介されたり、CMで使用されることが増えた。フィットネスクラブなどでは、エアロビクスと同じようなスタジオプログラムの1つとして行なわれている。この流行はインドから直接流入したものではなく、アメリカ、特にニューヨークやハリウッドでの流行が影響したものと考えられ、近年では同流行がインドへ逆輸入されている。

なお、伝統的ヨーガ系のグループには現在でも、イニシエーションを行なうなど宗教団体的側面を持つものもある。

主とする座法はパドマ・アーサナ(蓮華座)という結跏趺坐である。

人体内に大きな6または7つのチャクラ(Chakra、輪、車輪)と小さなチャクラがありそれを目覚めさせれば、またはクンダリニーを体内の脊椎にそって上昇させると悟りがひらけると一部の人たちは言うが、全くそういうことはない。実際は、タイティリーヤ・ウパニシャッドで説明される、生気レベル(プラーナーマヤ・コーシャ)の覚醒にすぎず、修行の入り口に立ったにすぎない。また、生気レベルの覚醒それ自体は霊格の向上をもたらさず、あくまでもカルマ・ヨーガの実践や世俗との係わりの中での人格の向上や、その他のヨーガを総合的に実践することにより、霊格は向上していくものと心得るべきである。

例外として、幾世にも渡り順調に霊性修行を続け霊格を向上させた成熟した特別な魂のみ、今世で厳しい修行を行うことにより猛烈なクンダリニーエネルギーを急上昇させることができ、そのときにのみサハスラーラを完全開化させ、解脱することが可能となる。
リラク 家電 検定 産業 専門学校 信越北陸 理容 建売 矯正 信託 バイク リラク 生活 介護 ショップ スクール 衣料 学習 水族館 養毛 近畿東海 脂肪吸引 投資 レストラン 設計施工 タロット 健康 教材 生活習慣病 アウトドア パソコン 公園 植物 教育 予約 豊胸 キャンプ場 養毛 金融 賃貸 生活雑貨 仏壇 健康 特産品 家庭教師 食品 語学 旅行 バスト 特産物

現在のパワーヨーガの源流ともなっているヨーガ。呼吸と共にアーサナを行う。しかし実際はラージャ・ヨーガの修行体系をいい、このことはヨーガ・スートラ第2章29節に記述されている。

「ハ」は太陽、「タ」は月をそれぞれ意味し、「ハタ」で「力の」という意味があるとされる。アーサナ(姿勢)、プラーナーヤーマ(呼吸法)、ムドラー(印・手印や象徴的な体位のこと)、クリヤー(浄化法)、バンダ(制御・締め付け)などの肉体的操作により、深い瞑想の条件となる強健で清浄な心身を作り出すヨーガ。起源は紀元後10世紀-13世紀頃。ゴーラクシャ・ナータが開祖。『ハタ・ヨーガ』と『ゴーラクシャ・シャタカ』という教典を書き残したと言われているが現存していない。インドに於いて社会が荒廃していた時期に密教化した集団がハタ・ヨーガの起源と言われ、肉体的操作ばかりに重きをおかれることから、低俗なものとみられる。しかしながら、悟りに至るための補助的技法として霊性修行に取り入れるならば、非常に有効であるといえる。なお、スポーツのストレッチなどはこのヨーガのアーサナ(姿勢)に由来している。

2009年04月25日

凹面の地球

我々が中空の惑星の外部表層に住んでいるという代わりに、我々の世界が凹面の内部に存在すると考えたものもいる。これは「凹面」地球理論とでも言えよう。 これは、人類の居住している地球表面とは、実は無限につづく岩塊のなかに存在する泡状の球体の内部であり、太陽や月や星は空間内部に浮かぶ雲のようなものだという奇想天外なものであった。

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アメリカの医師サイラス・リード・ティード(Cyrus Reed Teed、自称錬金術師、別名コレシュ。1839-1908)は1869年、凹面地球モデル『空洞宇宙起源論』を提唱し、「コレシュ・ユニティ」(Koreshan Unity)というカルトを設立した。

彼らのコロニーはフロリダ州の史跡として保存されていたが、現在ティードの信者は全員が故人となっている。

ティードの凹面地球モデルに影響されたヒトラーが、実際にカメラの狙いを空に定めることによって英国艦隊を発見しようとしたというウワサが根強く残っている。 1943年に、赤外線写真の専門家であるハインツ・フィッシャー博士を最高責任者とするナチス海軍の特別研究チームがつくられ、バルチック海の島に研究所を開設した。彼らはそこで特注の超望遠カメラを海岸に並べ、水平線から仰角45度ほどの天空の撮影を開始した。これは赤外線写真によって、はるか遠方(=凹面の対岸)にいる連合軍の艦船を察知しようとした試みだった。

2009年04月07日

大日本帝国陸海軍は解体・消滅

軍歌の終焉 [編集]
昭和20年8月15日の終戦、その年の11月30日をもって、明治以来の大日本帝国陸海軍は解体・消滅。軍歌が新たに作られることは少なくなった。しかし、パチンコ店で軍艦行進曲が流されるなど、軍歌自体の寿命はまだまだ続いており、自衛隊音楽隊でも旧軍の軍歌を隊歌として演奏している。

噫呼聖断は降りたり 作詞:喜多紀世雄 作曲:須摩洋朔
終戦直後に、将兵の気持ちを静める目的で軍楽隊によって作られた。
壮行譜 作詞:内場健人 作曲:須摩洋朔
昭和21年、戦犯としてシンガポールに行かねばならなくなった寺内寿一元帥を見送る際に作られた曲。軍楽隊による最後の軍歌であり、これ以降、本来の意味での軍歌は作られていない。
異国の丘 作詞:増田幸治 補作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 
シベリアに抑留された将兵たちによって収容所で歌われていた曲。戦後昭和23年、ある一人の復員兵がNHKのど自慢で歌い、一挙に大評判となった。作曲者は当初不明のままレコード化されたが、のちに吉田正・元陸軍伍長が引き揚げてきて、原曲となった大興安嶺突破演習の歌(今日も昨日も)の作曲者だと判明した。シベリアでの辛抱を表すような哀切極まる歌詞とメロディーで、いまだ元将兵の心をつかんでいる。昭和24年には、全国高等学校野球選手権大会の入場行進曲にも選ばれた。
ああモンテンルパの夜は更けて 作詞:代田銀太郎 作曲:伊東正康
B・C級戦犯として捕縛され、フィリピン・モンテンルパのニュービリビット刑務所に収監されていた日本軍将校の代田と伊東によって作詞作曲され、収容されていた日本軍将兵によって歌われていた曲。昭和27年1月、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから同刑務所に収容されている日本軍将兵がいることを聞いた歌手の渡辺はま子が、オルゴールを差入れとして贈ったところ、「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、歌詞と楽譜が彼女のもとに送られ、これを受けてビクターよりレコード化され、新東宝により映画化もされた。レコードは、渡辺はま子と宇都美清のデュエットで発売された。
ハバロフスク小唄 作詞:野村俊夫 作曲:島田逸平
昭和15年に林伊佐緒によって歌われた「東京パレード」の替え歌で、シベリアでの抑留生活を歌った曲。原曲よりも近江俊郎が歌った「ハバロフスク小唄」の方が有名になった。軽快な曲調が、むしろ抑留生活の悲哀を感じさせる。ちなみに、曲名は「ハバロフスク」だが曲中では「ハバロスク」と歌われることが多い。
日本の軍歌は、その支配権から独立した韓国、北朝鮮、ミャンマー等の軍歌のルーツになったとする見方もある。朝鮮人民軍は日本統治時代の旧日本軍出身者が多く、軍歌の作り方もそれに沿ったものであったとされている。また、前述の「日本海軍」や「鉄道唱歌」などから、明らかにメロディーを流用している例も散見される。

自衛隊歌 [編集]
憲法上で軍隊の保有が禁止されている事から自衛隊は軍隊ではないとされる。したがって戦後新たに作られ自衛隊内で歌われる歌も軍歌ではなく、正式には隊歌と呼ばれる。

陸上自衛隊
この国は 作詞:大関民雄 作曲:古関裕而
創隊10周年を記念して作られた陸上自衛隊隊歌。美しき自然等、自国日本をうたった重厚な曲調の歌。

栄光の旗の下に 作詞:赤堀達郎 作曲:古関裕而
創隊20周年を記念して作られた陸上自衛隊隊歌。最近でも2006年自衛隊音楽まつりにて自衛隊歌の中では唯一合唱付きで演奏されるなど、人気があり親しまれている。

君のその手で 作詞:西沢爽 作曲:古関裕而
聞け堂々の足音を 作詞:梅津統秋 作曲:古関裕而
栄光の自衛隊 作詞:三村治朗 作曲:佐藤長助
治安の護り 作詞:井戸徳男 作曲:堀内敬三
理想の歌 作曲:服部良一
男の群れ 作曲:佐久間裕
山よ海よ空よ 作詞:田邊尊文 作曲:村井邦彦
創隊30周年を記念して作られた陸上自衛隊行進歌。
海上自衛隊
海をゆく 作詞:旧版・佐久間正門 現行版・松瀬節夫 作曲:古関裕而
海上警備隊時代から愛唱されていたが、時代にそぐわなくなった歌詞のみを50周年の節目に公募の形で新しく改められた。一部の教育隊では1、2番両方共を入隊式での新隊員全員での合唱の為、それまでに完全に暗唱の形で上官に叩き込まれる。海上自衛隊の聖歌でもある。
航空自衛隊
蒼空遠く 作詞:海老根達 作曲:高山実
格調の高い詞と,覚えやすく上品な旋律で,航空自衛隊を代表する隊歌である。

非公式ではあるが旧軍時代の軍歌がそのまま歌われていたり、戦前の軍歌の詞を自衛隊仕様に変えたものが歌われることもあるが、現代もなお普通に陸海の音楽隊により公式の場(行事式典等)にて先述の「抜刀隊」や「軍艦」意外にも、「愛馬進軍歌」や「月月火水木金金」他様々な旧軍時代の軍歌が演奏されている。 特に,職種によっては軍歌を愛唱していることも多く,普通科の「歩兵の本領」,野戦特科の「砲兵の歌・襟には映える山吹き色の」,空挺の「空の神兵」は有名である。

軍歌の分類 [編集]
上述の通り、軍隊や国歌を歌った曲は、戦前戦後を通して基本的に軍歌と総称されたが、参考までに分類を付す。

軍歌
狭義の軍歌。軍隊によって作られたものを言う。民間によって作られ軍に贈られた「献納軍歌」も存在する。
 (例、抜刀隊、軍艦、敵は幾万、艦船勤務、討匪行、等)
部隊歌
各部隊ごとに作られた歌。
 (例、加藤隼戦闘隊、関東軍軍歌、各連隊歌・派遣軍歌・艦歌等)
軍楽
行進曲に代表される器楽曲。
 (例、陸軍分列行進曲、行進曲軍艦、連合艦隊行進曲、等)
戦時歌謡
戦時色を帯びた民間の歌謡曲、映画主題歌。軍国歌謡とも。
 (例、露営の歌、暁に祈る、出征兵士を送る歌、麦と兵隊、等)
国民歌謡
日本放送協会や新聞社、政府機関等が主導して製作発表された流行歌等。戦時歌謡に含める場合もある。
 (例、愛国行進曲、日の丸行進曲、爆弾三勇士、アッツ島血戦勇士顕彰国民歌、 等)
兵隊ソング
兵隊の間で歌われた俗謡。兵営フォーク、軍隊小唄とも。
 (例、ほんとにほんとにご苦労ね、海軍小唄:ズンドコ節、可愛いスーちゃん、同期の桜、等)
このほか、戦地で愛唱された一般歌謡曲や唱歌も、軍歌と呼ぶ場合がある。

主な軍歌作者 [編集]
大和田建樹(詩人)
佐佐木信綱(歌人)
永井建子(軍人)
田中穂積(軍人)
瀬戸口藤吉(軍人)
松島慶三(軍人)
大木惇夫(作詞家)
佐藤惣之助(詩人・作詞家)
林伊佐緒(歌手・作曲家)
山田耕筰(作曲家)
古関裕而(作曲家)

ルーズ リング このゆび セラピー マンタ ドッグフ リルック プッシュ ファンド 水晶パート キバナ ピラフ 時の雫 ドリブル トポス ミキシング ちょぼく ラリアン ブログ タティック リューマチ アーミン ラクターゼ ヨットレ ロケア ファイユ ラケット きつおん タービン マドン アルカイ ナビタラワ ブレザー ブルジ オルグゴン トラン ナビロト スキルア クロニ スタン オーバ リスク ドック サイト スティッ きくま パシフ チルバ カツ上 カウボーイ

2009年03月23日

1912年(大正元年)?1926年(大正15年)

1918年(大正7年)8月29日 - 日本初のケーブルカー(鋼索鉄道)として、生駒鋼索鉄道(現、近鉄生駒鋼索線)開業。
1919年(大正8年)4月10日 - 「私設鉄道法」と「軽便鉄道法」を統合して「地方鉄道法」公布。
1922年(大正11年)4月11日 - 「鉄道敷設法」改正。
これによりローカル線の整備も国鉄が担わされるようになり、後に国鉄財政を厳しくさせる一つの原因になった。
1924年(大正13年) - 日本で踏切警報機が登場。
鹿児島本線の門司駅(現、門司港駅)?大里駅(現、門司駅)間。保安性の向上に大いに役立つこととなる。
1925年(大正14年)6月5日 - 宮城電気鉄道開業。宮電仙台駅付近は地下線で、営業用としては日本最初の地下鉄道線である。
1925年(大正14年)7月 - 国鉄車両の連結器を連環連結器から自動連結器に交換。
1926年(大正15年)4月25日 - 日本初の自動券売機が登場。
ただし、それ以前に使用されていたという資料もある。当初は入場券のみを取り扱っていた。

1927年(昭和2年)?1934年(昭和9年) [編集]
1927年(昭和2年)12月30日 - 日本で初の地下鉄が開業。
東京地下鉄道の上野駅?浅草駅間(現、東京地下鉄銀座線)。この鉄道では打子式の自動列車停止装置 (ATS) が使用された。日本における実用的ATSの最初とされている。さらに、日本初の自動改札機(コインターンバー式)も導入された。
1928年(昭和3年)8月1日 - 日本初のトロリーバス(無軌条電車)である日本無軌道電車線が開業。
トロリーバスは1932年(昭和7年)の京都市営トロリーバス登場後、戦後になって公共交通機関として普及したが、路面電車同様モータリゼーションの進展で廃止された。
1929年(昭和4年) - 日本最初のディーゼル機関車(電気式)DC11形が試運転を行う。
1929年(昭和4年)10月1日 - 東武日光線全通。
1930年(昭和5年)12月20日 - 大阪電気軌道桜井線・参宮急行電鉄本線(現、近鉄大阪線・山田線)上本町駅?山田駅(現、伊勢市駅)間開通。
上2路線の内前者は伊勢崎線と直通して、後者は親会社・子会社の路線同士が相互直通運転する形で、どちらも電車を使用して100km以上の長距離運転を行った。国鉄で100km以上の長距離電車運転が行われるのは1950年(昭和25年)の事(戦時買収によって成立した飯田線を含めれば1943年)であり、先進的な試みであった。
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1935年(昭和10年)?1944年(昭和19年) [編集]
1936年(昭和11年) 南海鉄道(現:南海電気鉄道)で、日本初の冷房車(2001形)が登場。同年中に、国有鉄道の特急列車「燕」でも導入される。
1938年(昭和13年)4月 - 私有鉄道・バス会社の統合を円滑に進めるため、「陸上交通事業調整法」制定。
以後戦時体制の強化もあって私鉄各社の統合が政府主導で押し進められ、東京急行電鉄(大東急)や近畿日本鉄道のような大規模私鉄が発足することになった。
1942年(昭和17年)7月1日 - 世界初の海底トンネルである関門鉄道トンネルが開通する。
1944年(昭和19年)4月1日 - 軍事輸送強化により、特急列車・一等車・食堂車・寝台車が一旦消滅する。
又この頃、産業用鉄道を中心に戦時買収私鉄指定による国鉄化も軍事目的などで押し進められた。

1945年(昭和20年)?1954年(昭和29年) [編集]
1947年(昭和22年)12月18日 - 「過度経済力集中排除法」公布。
戦後、GHQの元で財閥解体など経済の民主化政策も推し進められることになり、この法とこの年4月公布の私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)等を背景に、戦時中に統合された私鉄の内いくつかが解体された。
1949年(昭和24年)6月1日 - 公共企業体日本国有鉄道発足。
戦争によって荒廃した鉄道の復興はこの頃ようやく軌道に乗り始めたが、国鉄の財政はインフレーションと復員兵・海外引揚者の雇用をさせられた関係などで極度に悪化しており、1948年(昭和23年)7月22日にはGHQのダグラス・マッカーサーから国の専売事業や国鉄などの政府事業を一般の国家公務員から除外し、事業運営を行うための公共企業体の設置を求める書簡が出された。それを受け、11月30日には「日本国有鉄道法」が国会を通過し、この時「公共企業体日本国有鉄道」が発足することになったのである。しかし政府の介入権が強いなど経営の自主性が薄く、それが後に財政破綻や労使紛争を引き起こす原因になった。また、「国鉄三大ミステリー」とされる下山事件・三鷹事件・松川事件が起きたのもこの年である。
1949年(昭和24年)9月15日 - 国鉄としては戦後初の特急列車「へいわ」を運行開始。
同時に一等車・食堂車も復活(寝台車は前年11月)し、鉄道復興が順調に進んでいることを国民に指し示すことになった。
1950年(昭和25年) - 「湘南電車」と呼ばれることになる国鉄80系電車が登場。
国鉄においても電車による長距離列車が行えることを証明し、以後機関車牽引方式(動力集中方式)から動力分散方式へ日本の鉄道駆動方式の方針を変えさせるきっかけになった。
1953年(昭和28年) - 京阪電気鉄道や帝都高速度交通営団(現、東京地下鉄)で、カルダン駆動方式の電車が導入される。
以後電車においては、線路への負担が少ないなどの理由でそれまでの吊り掛け駆動方式から同方式へ駆動方式が改められることになる。国鉄においては、1957年(昭和32年)登場の101系電車が初となった。

1955年(昭和30年)?1964年(昭和39年) [編集]
1955年(昭和30年)8月10日 - 仙山線陸前落合駅?熊ヶ根駅で、日本初の交流電化試験が実施される。
長距離を電化する場合は直流に比べて電化コストが安いなどの理由により、後に全国へ広まることになった。
1956年(昭和31年)11月19日 - 東海道本線が全線電化される。
それまでは蒸気機関車が主役の時代であったが、徐々に鉄道の電化が進められるようになった。また、この頃から次第に非電化区間でも蒸気機関車に代わってディーゼル機関車・気動車が使用されるようになった。
1957年(昭和32年)12月17日 - 日本初のモノレール(懸垂式)として、上野懸垂線開業。
1958年(昭和33年)11月1日 - 東京駅?大阪駅間で電車特急「こだま」が運転開始。
電車による初の長距離特急列車であり、新幹線にも影響を与えた。
1960年(昭和35年)12月10日 - 上野駅?青森駅間で、気動車初の特急「はつかり」が運転開始。
1962年(昭和37年)3月21日 - 跨座式のモノレールとしては日本初の名鉄モンキーパークモノレール線開業。
1964年(昭和39年)9月17日 - 東京モノレール羽田線が開業。
日本初の空港連絡鉄道であった。
1964年(昭和39年)10月1日 - 東海道新幹線が営業運転を開始。
新幹線の創始である。当初は東京駅?新大阪駅間を4時間運転。1年ほどの後の1965年(昭和40年)11月1日からは所要時間が3時間10分になった。
この年から国鉄は赤字になる。原因には通勤五方面作戦や新幹線の建設に伴う支出、自動車の普及によるモータリゼーション、都市への人口集中による地方ローカル線の営業不振などがあげられる。

2009年03月08日

士官(しかん officer)

士官(しかん officer)は、各国軍隊などの組織の士官学校などにおいて、用兵などの初級士官教育を受けた軍人で、階級が少尉以上の武官を呼ぶ。将校ともいう。(明治初年のofficerの邦訳では士官であったが、明治20年ごろから将校に変わった)下士官の上となる。自衛隊では、3尉(3等陸尉・3等海尉・3等空尉)以上の幹部自衛官がこれに相当する。

将校と士官とは、旧日本陸海軍においては厳密に区別されていた。(本記事では広義の「士官」制度について記述する。)

なお、明治時代から大正時代にかけての日本では、尉官に相当するものを士官と、佐官に相当するものを上長官と呼称していた。この意味における士官については尉官参照。日本海軍では大正8年9月22日勅令第427号により士官・上長官の区分を廃止する。本記事においては将佐官を含む用法における士官について記述する。

士官は、当初貴族が任命されてきたが、近代的軍隊の専門化に伴い、士官養成学校での専門的軍事教練を経た者が任用されるようになった。一般的に士官は基本的な軍事教練を受けた後に、それぞれの専門となる兵科について学ぶ。もっとも、兵卒から下士官への昇任は通常のことであるが、下士官から士官への昇任にはなお、困難を伴う制度を採用している国も多く、そのため本来的身分は下士官に属しながらも、特に辞令を受けて士官と同様の待遇を受ける准士官制度が発達した。

士官は元首を代理する者とされ、陸軍では小隊長又は中隊長以上の部隊の指揮官は士官を以て充てることが通常である。また、海軍にあっては、対外的に国家を代表する軍艦(軍艦搭載艇などの短艇を含む。)は絶対に士官の指揮下になければならず、このことは国連海洋法条約第29条に現れている。

また、士官の貴族的性格の残滓は、「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」第49条などに見られる。同条においては、第1項及び第2項で捕虜の労働者としての使用を認めている。ところが、第3項但書においては、「将校又はこれに相当する地位の者……に対しては、いかなる場合にも、労働を強制してはならない。」と規定して、本人の志願がない限り士官に労働させる事を禁じている。

兵卒及び下士官の階級制度は、国や時代によって多様であるが、士官制度は比較的共通性が見られ、将官・佐官・尉官に大別され、各々が大中少(又は1等・2等・3等)に区分されることが多い(詳しくは軍隊における階級呼称一覧参照。)。 士官の任用については、陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業した20歳前後の者を少尉として任用する国が多い。もっとも、強度の国民皆兵制度を維持している国では、徴兵の中から選抜して士官候補者を採用する国もある。また、軍医や技術士官など特殊な士官は別途の任用がなされることが多い。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

なお、共産圏諸国においては共産党が軍隊を掌握するために政治委員を各部隊に配属して、党の利益を擁護する見地から軍事指揮官を監視していた。この政治委員を政治将校と呼ぶ場合もある。
自衛隊
日本の自衛隊においては士官に相当する地位の者を幹部自衛官(かんぶじえいかん)と呼称する。海上自衛隊ではその生い立ちから旧海軍譲りの士官という語を用いることも多い。例えば、士官室、当直士官、副直士官、警衛士官、甲板士官、機関室副直士官、係士官など艦内編成において多く用いる。

自衛隊では、防衛大学校又は一般大学を卒業した者等を、数ヶ月から1年程度幹部候補生学校で教育した後に3尉に任用することが最も一般的である。

幹部自衛官は、陸上では職種、海上・航空では特技に分類されるが、一般の幹部自衛官と、医官・歯科医官たる幹部自衛官や音楽科の幹部自衛官等で、法令上の権限等の差は設けられていない。

なお、自衛隊の前身たる保安隊では「幹部保安官」、警備隊では「幹部警備官」とそれぞれ呼称した。

2009年02月19日

アークエンジェル (機動戦士ガンダムSEED)

アークエンジェル級(アークエンジェルきゅう、Archangel Class)は、テレビアニメ『機動戦士ガンダムSEED』及び『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』に登場する架空の宇宙戦艦。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

大西洋連邦軍の強襲機動特装艦である。本級はイズモ級宇宙戦艦をタイプシップとしてオーブ連合首長国との共同で開発され、ネームシップはオーブ領ヘリオポリスのドックで極秘建造された。

ザフト軍が保有するMSの有効性を認め、独自のMS、殊にGAT-Xシリーズの運用母艦として、1番艦アークエンジェル、2番艦ドミニオンが建造された。

特殊装甲としてラミネート装甲が使用されている。また、宇宙から地球への降下時には艦底部を気化性のジェルで覆う事により艦体の温度上昇を防ぎ、大気圏突入を可能としている。

陽電子破城砲「ローエングリン」
両艦首に1門ずつ装備されている陽電子砲。アークエンジェルに搭載されている武装の中で最も強力であり、右舷が1番、左舷が2番である。その設置場所から、前方の敵に対しての使用が前提となっている。試験装備であるため劇中初期では「特装砲」と呼ばれていた。
『DESTINY』では、環境への影響が少ない新型に交換された。
225cm連装高エネルギー収束火線砲「ゴットフリートMk.71」
アークエンジェル主砲であり、艦首両舷に1基ずつ装備されている2連装のビーム砲。右舷が1番砲塔、左舷が2番砲塔であり、通常は格納されているが使用時にせり上がる沈胴式となっている。180度の砲塔旋回が可能であるが、設置場所から艦後方への攻撃ができない。
110cm単装リニアカノン「バリアントMk.8」
アークエンジェルの副砲であり、艦尾両舷に1基ずつ装備されているリニアガン。右舷が1番、左舷が2番。連射能力も高く精密射撃が可能である。艦側面に配置されており、上下360度旋回する事で地表や海面を空中から直接狙撃する事が出来る。短時間に使用しすぎると、砲身温度が上がり使用不能になる。海中に潜航時、魚雷以外に使用できる唯一の武器である。
75mm対空自動バルカン砲塔システム「イーゲルシュテルン」
多銃身の対空機関砲を用いた近接防御火器システム。ミサイルやMSを迎撃する近接防御システム (CIWS)である。
艦橋後方ミサイル発射管 対空防御ミサイル「ヘルダート」
艦橋の後方に16門装備されているごく短射程の艦対空ミサイル発射管であり、近接SAMの一種。
艦尾大型ミサイル発射管
艦尾に多数設置されている全24門の大型ミサイル発射管。外側に左右6門ずつ配置された12門が前方、内側の12門が後方に向けて各種の誘導弾が射出される。
艦対艦ミサイル「スレッジハマー」
対空防御ミサイル「コリントスM114」
大気圏内用ミサイル「ウォンバット」
対空榴散弾頭ミサイル
多目的射出機
両舷に4門ずつ設置されている射出機。アンチビーム爆雷やフレア弾、信号弾などの発射が可能となっている。

アークエンジェル
アークエンジェル (Archangel) は、『機動戦士ガンダムSEED』及び『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』に登場する架空の宇宙戦艦。アークエンジェル級のネームシップ。

地球連合軍第8機動艦隊に所属する宇宙戦艦であり、艦長はマリュー・ラミアスが務める。

ヘリオポリスにおいて、オーブの軍事企業モルゲンレーテ社の協力を受け、G兵器と共に極秘裏に建造が行われ、高い機動力、攻撃力、防御力を合わせ持った戦闘能力を有する。外装は、塗装は白と赤が基調に塗装されている。

艦名のアークエンジェルは、天使の階級である「アークエンジェル」に由来する。

略称は「AA」。艦内の壁にはベルトコンベアーに似た移動設備があり、宇宙空間を航行中はそこへ手を乗せて艦内を移動することが出来る。搭乗員用として、2段式ベッドが2つある小さめの部屋や普通のベッドが2つある部屋が存在する。
アークエンジェルの特徴である艦首両舷から前方に突き出した脚部状のモビルスーツハッチからザフト軍には「足つき」と呼ばれた。

SEEDでの搭載機
GAT-X105 ストライク
TS-MA02mod.00 メビウス・ゼロ
FX-550 スカイグラスパー×2
GAT-X103 バスター
ZGMF-X10A フリーダム
ZGMF-X09Aジャスティス
MAW-01 ミストラル×6
SEED DESTINYでの搭載機
ZGMF-X10A フリーダム
MBF-02 ストライクルージュ
MVF-M11C ムラサメ(アンドリュー・バルトフェルド専用機)
MVF-M11C ムラサメ×10
FX-550 スカイグラスパー
ZGMF-X20A ストライクフリーダム
ZGMF-X19A インフィニットジャスティス
ORB-01 アカツキ
ZGMF-XX09T ドムトルーパー×3
機動戦士ガンダムSEEDでの活躍
ヘリオポリスにおいて、完成直後に受けたザフト軍の襲撃によって艦長以下大半の上級士官を失うが、残ったクルーの手により破壊から免れる。G兵器のうち唯一奪取を逃れたストライクを搭載し、ヘリオポリスから脱出した。その後、地球連合軍にMSのデータを渡すため地球へと向かった。
地球へ降下後は、地球連合軍総本部アラスカ基地を目指したが、そこで見せ付けられた地球連合軍の体質と、サイクロプスを起動させ、攻勢したザフト軍のみならず防衛する友軍をも巻き込んだ壊滅作戦に対し不信を抱き軍籍から離脱、独自行動を取るようになり、地球連合軍及び大西洋連邦軍からの脱走艦の状態となる。しばらくはオーブに寄港在泊していたが、地球連合軍の侵攻を受け宇宙へ脱出した。オーブ残存勢力の戦艦クサナギ、クライン派の戦艦エターナルと三隻同盟を結び以後行動を共にした。第2次ヤキン・ドゥーエ攻防戦を戦い抜き、多大な損傷を被るも無事帰還している。三隻同盟は母港を持たないため帰還先は不明である。
機動戦士ガンダムSEED DESTINYでの活躍
戦後、アカツキ島にあるアスハ家所有の秘密ドックに収容されていた。改修を受けており、少人数でも運行可能なオートメーション化、潜航用のバラストタンク、魚雷等が追加された。また、海底からの発進や潜水航行が可能となり、ブースターを使用せずに単体で大気圏突破能力が備わった。リラクゼーションなどを目的に艦内施設として「天使湯」と呼ばれる露天風呂を模した大浴場も新設されている。
キラ・ヤマトらの手によってオーブを離脱後、スカンジナビア王国に匿われていたが、地球連合軍と同盟を結んだオーブ軍の戦闘行為を止めるべく、クレタ・ダータネルスでの戦闘に介入し連合・ザフト双方に攻撃を加えた。その後もベルリンでの戦闘にも参戦し、オーブへの帰還を決意するが、ザフト軍の攻撃により多大な損傷を受け、搭載機のフリーダムも失った。
オーブ帰還後、オーブ侵攻戦に参戦し、戦闘後にはオーブ軍に編入され第2宇宙艦隊の所属艦となる。宇宙に上がった後は中立都市コペルニクスに停泊し、その後、エターナルを中心とするクライン派の艦隊と合流した。レクイエム攻防戦において、ミネルバと交戦になり、エターナルと共にタンホイザーの射線上に捉えられて撃沈の危機に瀕するもネオ・ロアノークのアカツキの援護により形勢は逆転する。ミネルバのトリスタンとミサイル発射管を破壊し、戦闘不能に追い込んだ。クルーに少数の死傷者を出すが、大きな損傷を負う事もなく終戦を迎えている。

アークエンジェルのデータを元に地球連合軍が建造したアークエンジェル級の2番艦であり、艦長はナタル・バジルールが務める。塗装は黒を基調としているため、アークエンジェルとは対照的なイメージを与える外観を持つ艦になっている。艦橋部の両脇にあるアンテナ部分と艦尾両舷の垂直翼などに多少の形状違いが見られる以外はアークエンジェルとほぼ同じ性能を持つ。

地球連合軍の後期GAT-XシリーズのMSであるカラミティ、レイダー、フォビドゥンを搭載しており、パイロットのオルガ・サブナック、クロト・ブエル、シャニ・アンドラスのほかオブザーバーとしてブルーコスモスの盟主ムルタ・アズラエルも乗艦している。

艦名のドミニオンは、天使の階級である「ドミニオンズ」に由来する。

搭載機
GAT-X131 カラミティ
GAT-X370 レイダー
GAT-X252 フォビドゥン
GAT-01 ストライクダガー
劇中での活躍
月面の地球連合軍基地に配備され、アークエンジェル追討の任務によりL4コロニー群で戦闘を行った。第2次ヤキン・ドゥーエ攻防戦において、アークエンジェルと激しい戦いを繰り広げ、最終的にはアークエンジェルのローエングリンを艦橋部に受け、ナタル・バジルールとムルタ・アズラエルと共に爆沈した。

2009年02月03日

奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)

奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った一族で天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族である。
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

奥州藤原氏の遠祖である藤原頼遠は諸系図によると「太郎太夫下総国住人」であったと記され、陸奥国(後の陸中国)に移住した経緯はよく分かっていない。しかし父親の藤原正頼が従五位下であったことと比較し頼遠が無官であることから平忠常の乱において忠常側についた頼遠が罪を得て陸奥国に左遷され、多賀国府の官人となったものと推測されている。ただしこの意見には、平忠常の乱では忠常の息子たちも罪を得ていないので頼遠連座はあり得ないとの反論がある。

頼遠の子・藤原経清(亘理権大夫)に至り、亘理地方に荘園を経営するなど勢力の伸張が見られた。また経清は陸奥奥六郡を牛耳る豪族・安倍頼時の娘を娶って縁戚関係を結び、安倍氏一門の南方の固めとなっていた。長久元年(1040年)より国府の推挙により数ヵ年修理大夫として在京し、陸奥守・藤原登任の下向に同行し帰省したとの説もある。

なお奥州藤原氏が実際に藤原氏の係累であるかについては長年疑問符がつけられていたが、近年の研究では藤原経清について永承2年(1047年)の五位以上の藤原氏交名を記した「造興福寺記」に名前が見えており、同時期に陸奥国在住で後に権守となった藤原説貞と同格に扱われていることから実際に藤原氏の一族であったかはともかく、少なくとも当時の藤原摂関家から一族の係累に連なる者と認められていたことは確認されている(興福寺は摂関家の氏寺である)。また確たる史料はないものの亘理郡の有力者で五位に叙せられ、陸奥の在庁官人として権守候補であった可能性は高いと見られている。

奥州藤原氏登場前史
東北地方は弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が北海道から南下して住み着くなど、関東以南とは異なる歴史を辿った。ヤマト王権の支配も関東以南ほど強くは及んでいなかったが律令制の時代には陸奥国と出羽国が置かれ、俘囚と呼ばれた蝦夷(えぞ)系の人々と関東以南から移住して来た人々が入り混じって生活していた。

11世紀半ば、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していた。安倍氏、清原氏はいずれも俘囚の流れを汲む、言わば東北地方の先住民系の豪族であった。このうち安倍氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年に渡って戦われたのが前九年の役である。前九年の役はその大半の期間において安倍氏が優勢に戦いを進めていたが、最終局面で清原氏を味方に付けた源頼義が安倍氏を滅ぼして終わった。

この前九年の役の前半、安倍氏の当主であったのが頼時である。頼時は天喜5年(1057年)に戦死し、その息子の安倍貞任は康平5年(1062年)に敗死したが安倍頼時の血統が絶えたわけでは無かった。頼時の娘の1人が前述の亘理郡の豪族・経清に嫁いでいたのである。経清もまた安倍氏の滅亡の際に頼義に囚われ斬首されたが、その妻(つまり頼時の娘)は頼義の3倍の兵力を率いて参戦した戦勝の立役者である清原武則の長男・武貞に再嫁することとなった。この時、頼時の娘が連れていた経清の息子(頼時の外孫)も武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗った。

永保3年(1083年)、清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生する。この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清原真衡の死もあって一旦は清原氏の内紛は収まることになった。ところが義家の裁定によって清原氏の所領の6郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されると、しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいてしまった。義家はこの戦いに再び介入し、清衡側について家衡を討った。この一連の戦いを後三年の役と呼ぶ。

真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。

藤原氏の支配の成立
清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。その為、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認した。その後、朝廷内部で源氏と平氏の間で政争が起きたために奥州にかかわっている余裕が無かったと言う事情も有ったが、それより大きいのは当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたことと思われる。中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を崩さなかったことが中央政府からの介入がなかった理由と思われる。

そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立する事になる。

また、基衡は院の近臣で陸奥守として下向してきた藤原基成と親交を結び、基成の娘を秀衡に嫁がせ院へも影響を及ぼした。その後下向する国司は殆どが基成の近親者で、基成と基衡が院へ強い運動を仕掛けたことが推測される。

奥州藤原氏が築いた独自政権の仕組みは鎌倉幕府に影響を与えたとする解釈もある。

清衡は陸奥押領司に、基衡は奥六郡押領司、出羽押領司に、秀衡は鎮守府将軍に、泰衡は出羽、陸奥押領司であり押領司を世襲することで軍事指揮権を公的に行使することが認められ、それが奥州藤原氏の支配原理となっていた。また、奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていたようである。奥州藤原氏滅亡時、平泉には陸奥、出羽の省帳、田文などの行政文書の写しが多数あったという。本来これらは国衙にあるもので、平泉が国衙に準ずる行政都市でもあったことがうかがえる。

一方で出羽国に奥州合戦後も御家人として在地支配を許された豪族が多いことから、在地領主の家人化が進んだ陸奥国と押領司としての軍事指揮権に留まった出羽国の差を指摘する見解もある。特に出羽北部には荘園が存在せず、公領制一色の世界であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問であるとする説がある。

その政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、北宋や沿海州などとも独自の交易を行っていた様である。マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏(後に安東氏)による十三湊大陸貿易によってもたらされたと考える研究者もいる。

平泉文化
長治2年(1105年)に清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。

永久5年(1117年)に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽上皇が横取りして自分が建立した寺院の本尊に使用せんとしたほどだったという。

天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。

奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。

この平泉文化は現代でも大阪商工会議所会頭による東北熊襲発言に際して、国会で東北地方の文化の象徴として引き合いにだされている。

落日
秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。

秀衡は頼朝からの引渡要求を拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索した。

しかし、関東の後背に独自の政権があることを恐れた源頼朝は同年7月、義経を長らくかくまっていた事を罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県鹿角)において家臣の造反により藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。

平家滅亡により源氏の勢力が強くなった事、奥州に深く関わっていた義経が頼朝と対立した事などにより中立を維持できなくなった事が滅亡の原因となった。

一族
清衡の四男・藤原清綱(亘理権十郎)は当初亘理郡中嶋舘に居城し以後平泉へ移りその子の代には紫波郡日詰の樋爪(比爪)館に居を構え樋爪氏を名乗り太郎俊衡と称している。奥州合戦では平泉陥落後、樋爪氏は居館に火を放ち地下に潜伏したが、当主・樋爪俊衡らは陣ケ岡の頼朝の陣に出頭し降伏した。頼朝の尋問に対し法華経を一心に唱え一言も発せず命を差し出したので老齢のことでもありその態度を是とした頼朝は樋爪氏の所領を安堵したがその後、歴史の表舞台から消えた。子や弟も相模国他へ配流された。

藤原秀衡の四男高衡も投降後相模国に流罪となり樋爪一族と行動をともにした。これにより奥州藤原氏のすべてが処分された。

一方、経清(亘理権大夫)以来代々の所領地曰理郷(亘理郡)も清綱(亘理権十郎)の没落とともに頼朝の幕僚・千葉胤盛の支配する所となった。

清綱の息女の乙和子姫は、信夫荘司佐藤基治に嫁し佐藤継信・佐藤忠信兄弟(義経の臣)の母親として信夫郡大鳥城(福島市飯坂温泉付近・現在舘の山公園)に居城した。全国佐藤姓のみなもとのひとつとなった。

藤原秀衡の弟藤原秀栄は、分家して、十三湊に住み十三氏(十三藤原氏)を名乗った。十三氏は、鎌倉時代も残り、十三秀直の代の1229(寛喜元)年に安東氏に滅ぼされるまで続いた。

系譜
     経清

    清衡※
     ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓       
   惟常  基衡    正衡   清綱   家清  〇〇
  ┃    ┣━━━┳━━━━━━━┓
   秀衡        俊衡  孝衡(樋爪氏) 乙和子=佐藤基治 
     ┏━━━╋━━━┳━━━┳━━━┓
     国衡  泰衡  忠衡  高衡 通衡
 「紺紙金銀字交書一切経大品経 巻二十二」の奥書から元永2年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる。

2009年01月20日

オーケストラ(管弦楽団、orchestra)

オーケストラ(管弦楽団、orchestra)とは、管弦楽曲、すなわち複数の弦楽器、管楽器および打楽器からなる編成による音楽を演奏するために組織された団体である。主にクラシック音楽を演奏する。

オーケストラには、クラシック音楽以外(ラテン音楽やジャズオーケストラ(ビッグバンド)・マンドリンオーケストラ・ギターオーケストラ等)を演奏する団体もあるが、本稿ではクラシック音楽を演奏する団体について記述する。
オーケストラは通常、指揮者により統制されて演奏する。

大規模なものは交響楽団(symphony orchestra)、小規模で弦楽器中心のものは室内管弦楽団(chamber orchestra)、ダンス音楽や行進曲などを演奏するさらに小規模な編成のものはバンドなどと呼ばれる。ただし「交響楽団」の呼称は歴史的なもので、現代では各オーケストラの固有名詞の一部と解するほうが自然である(例:ベルリン交響楽団がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団より大きいわけではない)。

ロマン派音楽の頃に多かったオーケストラ編成が、標準的な編成とされている。古典的な作品の演奏ではこれよりも若干小規模で、近代的なものには、より大規模なものも存在する。これらの編成は、主要な管楽器の員数によって二管編成、三管編成、四管編成など呼ぶ。下記の編成の例は二管編成である。団体としてのオーケストラの構成員の数は様々なので、団体と作品によっては通常の団員に加えて臨時参加の奏者を加えて演奏することもある。

オーケストラの歴史
オーケストラの語は、ギリシャ語のオルケーストラ(ορχηστρα)に由来する。これは舞台と観客席の間の半円形のスペースを指しており、そこで合唱隊(コロス、コーラスの語源)が舞を踊ったりしていた。

弦楽合奏に管楽器の加わった管弦楽は、バロック期にオペラの伴奏として、弦楽合奏の補強にオーボエやファゴットなどの木管楽器が加えられたのが始まりで、モンテヴェルディのオペラに初期の形態を見ることができる。このころのオーケストラは、弦楽器を中心にフルート、オーボエ、トランペット、トロンボーン(サックバット)を加えたものであった。バッハやヘンデルらによってオラトリオやカンタータの伴奏としてもオペラ風の管弦楽が取り入れられて発展し、管弦楽独自のための音楽としては合奏協奏曲や管弦楽組曲が生まれた。次第に金管楽器やティンパニなど加わって大規模になった。

古典派期には交響曲や協奏曲、オペラの伴奏として大いに発展し、コンサートホールでの演奏に適応して弦楽を増やし大規模になり、またクラリネットなど新しい楽器が加わって、現在のような形となった。グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』において、ピッコロ、クラリネット、バスドラム、トライアングル、シンバルがオーケストラに加わった。

ロマン派音楽ではさらに管楽器の数や種類が増え、チャイムやマリンバ、グロッケンシュピールなどの打楽器が加えられた。時にはチェレスタ、ピアノなどの鍵盤楽器やハープが登場するようにもなった。

オーケストラの組織
オーケストラは、それ自体が「演奏家」という専門家が多数集まった組織であり、楽譜や楽器など独自の資材を抱え、また、大きな練習場や、環境の良い資材倉庫などを確保しなければならないため(小さなオーケストラであっても)稼動日数と財政のバランスが崩れやすい。したがって、これを健全に運営するには(商業楽団であるとなしとにかかわらず)、堅固なスポンサーシップまたはオーナリング、あるいはきわめて高度な経営技術を求められる。

多くのオーケストラは常設かつ専門の団体であるが、毎年の音楽祭などで臨時に集まる音楽家によって組織されるものも存在する。例えばバイロイト祝祭管弦楽団が有名なものである。

歌劇場のオーケストラピット内での活動を主とするオーケストラはドイツを中心に多数存在し、そのほとんどがオペラのみならず演奏会も行う。ウィーン国立歌劇場の管弦楽団員の中から組織されるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が、その一例である。 欧州では、所属する劇場が公立であることが多いのも特徴的である。
マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

また、放送局が専属のオーケストラを持つ例も多い。これはもともと、番組のテーマ曲、ドラマの伴奏、各種の放送用音楽を調達しやすくするために所有しはじめたのが根源であり、大小さまざまな放送局がそれぞれの経済規模にあったオーケストラを所有していた。大きな放送オーケストラは、主に国家予算で運営されてきた、世界の国営放送局や、それらにかわる公共放送局などであり、放送の歴史が長い欧州に多い。ラジオフランスに代表される各国の国営放送直営の楽団や、ドイツの各地域を担当する公共放送局の楽団(バイエルン、ベルリン、北ドイツなど)などがその例である。BBCやNHKなども有名交響楽団を持つ公共放送局である。また、商業放送会社が所有したオーケストラとしては米国のNBCが所有していたNBC交響楽団が有名である。日本においてはABCがABC交響楽団ほか複数の管弦楽団を所有し、演奏会のほかに、放送番組用の音楽を多数演奏した。また日本フィルハーモニー交響楽団は、当初文化放送の専属オーケストラとして誕生し、フジテレビジョンと専属契約を結んでいた。また、ユニークな例としてベルリンの米軍占領地から東ドイツに向けて放送されていたRIASが所有していたベルリン放送交響楽団などもあり、現在も名を変えて活動している。

反面、独立の団体としてのオーケストラは、オーナーからの定期的な演奏の発注がないため、定期演奏会の入場料やレコード録音の契約料を頼みにしなければならず、優れた契約スポンサーを持っているか、ごく一部の人気楽団や経営形態の改善に成功した楽団を除けば、これだけで存立することは難しい。それらは、国や自治体の助成金や企業・個人(スポンサー)の寄付によって成り立っているケースも少なくないが、おおむね財政難である。オーナーやスポンサーの引き揚げによって、独立運営を強いられるケースもあり、これは直接オーケストラの存続に関わる。海外ではEMIの支援を失ったフィルハーモニア管弦楽団の解散(団員は解散に対抗して自主的演奏団体としてのニュー・フィルハーモニア管弦楽団を結成)、日本でも1972年の日本フィルハーモニー交響楽団の解散・分裂などの事例が発生している。